読書記録: 『反知性主義と新宗教』

Kindle Unlimited で読んだ。


ホーフスタッターは、「知性」と「知能」とを区別している。知性の原語は、“intellect"であり、知能の方は"intelligence"である。
(略)
私たち日本人の感覚からすると、知性と知能のあいだに明確な違いがあるとはあまり考えない。実際に、“intellect"と"intelligence"を翻訳するとき、ともに知性や知力、知的能力といった訳語が用いられる。
ところが、ホーフスタッターは、知能は、「ものごとを処理し、適応するなど、きわめて実質的な特質」であり、その働きは日常的に観察できるとする。
それに対して、知性は、「吟味し、熟考し、疑い、理論化し、批判し、想像する」ものであり、「頭脳の批判的、創造的、思索的側面」であるとする。

ここに知性のヘゲモニー、つまりは知性の支配権に対する霊性の異議申し立てを見ている。反知性主義は、知性そのものに反対しているわけではないが、知性の方が霊性よりも高い価値を与えられることには反対する。なぜなら、「神の前では万人が平等」であるはずだからである。

玄竜は巴之助を膝に抱き、「俳諧は詠むべし、俳諧師とはなるべからず。仏法はまなぶべし、僧侶とはなるべからず。味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と口癖のように言っていたという。

  • 反知性主義を知性より知能を重んじる立場と捉え、日本の新宗教や企業の背後に見て取れる反知性主義を広くまとめている
    • 松下幸之助や田中角栄を知性でなく知能の人と評価している
  • ポピュリズムとは分けて語っているが、それでも「知性より知能」という立場は大衆を取り込むのでポピュリズムと当然結びつけて捉えることもできる
  • 仏教は勝手に修行して勝手に悟りをひらくことを目的とするので、やはり陰キャの宗教であると感じる(陰キャの宗教の国に生まれてよかった)
    • そんな仏教であっても在家の信仰を取り入れ知能を重んじれば大衆の宗教となる