筒井康隆のような作家は避けて生きてきたのでその文脈で考えることはできないが、映画『敵』を見てきた。
さて、敵とはなんだったのかという話になるわけであるが、それは自身の発した言葉たちなのではないかと感じられた。
前半1時間ほどは何も起きない渡辺儀助の生活が表現されていて、本当に何も起きない。しかしそこには渡辺儀助の生活があり、日々発する言葉たちがあった。ちなみにこの生活の解像度がすごくて、別にこれを2時間見せられても構わない出来だった。
- 残高に見合わない長生きは悲惨だから
- ただ生き延びるために生きるってことを、どうしても受け入れられない
これらの言葉はプライドであっただろうし、今までの生き方の延長線上にこれらがあるのだろうなと思わせる言葉たちだった。
しかし、それらの言葉たちは敵として返ってくるのだ。自らのXデーを計算していることを話せば、若い女の子にお金をだまし取られてしまう(Xデー、だいぶ縮まっただろうな)。こんなに石鹸を贈られても使い切れない、とりあえず無難なものをという日本人的精神だと批判すれば、妄想の敵は汚い姿でやってくることになる。
自分が発した言葉は、必ずなんらかの姿をして自分を苦しめに戻って来るという構図がはっきりと存在した。
それこそが敵なのだろうと感じられた。老いや死という現象そのものではなく、それらが眼前に迫ったとき、過去の自分の言葉たちが敵として襲いかかってくる。
しかし、それを敵と表現するのは抗う意志があるからに他ならない。クライマックスで渡辺儀助ははっきりと敵に立ち向かう(これもまた戦争を母親のお腹の中で経験したという言葉とリンクしていて、まるで空襲のような攻撃を受けながら狭い物置に逃げ込むことになってしまう)。
自身の言葉に苦しみ続けた渡辺儀助だが、彼の最後の言葉は彼を苦しめることはない。遺言は残された人々に作用する言葉だ。渡辺儀助は死んだが渡辺儀助の遺言は残る。渡辺儀助が過去の言葉と戦うことを辞めなかったからこそ遺言には力が宿る。
言葉と生きることの苦しみと、苦しみ抜いたからこそ命が終わっても残る言葉を遺せたのだという僅かな喜びという話だったのではないかと解釈した(そして冒頭の「筒井康隆はよく知らない」に戻るが、人気作家という立場だからこそ書けた物語だったのかもなと思った)。